新しい生き方

生涯定職に就かなかったソローの生き方

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脱サラという実験
ニュース


【「だらだらはやめ!全部やめ!やっているようで、何も進んでいないのはなぜか」】(第二章「どこで、なんのために暮らしたか」p120より引用)
【つまらぬ恐れやけちな娯楽は、現実の陰だとわかるでしょう。現実はいつも陽気で、謎に満ち満ちています。】(第二章「どこで、なんのために暮らしたか」p121より引用)

ソローはニュースも下らない娯楽と言い、新聞を読みません。
 私は新聞が読める年齢になったあたりからずっとそれを読むようにと色々な人から言われ続け、知ることは民主主義の義務なのだから、興味がないというのは悪である、と言われてきました。みんながそう言うのできっとそれが正しいのだろうと信じたのですが、随分と途方に暮れたものです。
誰も見たこともないような莫大なお金の話、きっと最後は論理的に破綻して雲散霧消してしまう計算のお話にどうとも興味が持てなかったのです。隣が百万のものを持ったらこちらは百一万のものを持たなければならない、そうでなければ世界のバランスが崩れる、だなんていう話の論理がさっぱり飲み込めなかったのです。何かを代表している大人たちが集まってする子供の喧嘩のようなやりとりも(勿論子供の喧嘩というのはぜひとも必要なものと私は信じますが)いちいち全世界がいつ誰が誰のどこをどういう風に嫌みを言ったのかということまでを知らねばならないとはとても思えなかったのです。
 いつまで我慢してニュースを見ていれば目の覚めるような進展があるかと思って待っていても、繰り返しの事以上は何も起こりません。
 もしかしたらニュースに興味が持てなかったのは、私の知能が足りないせいではなく、ニュースそのものがどうでもよいものだからだという可能性もある、と私は思いました。
 興味を持てないことを隠してそれに関わりあうというのは苦しいものです。興味ないものに興味ないというのはなんと明快ですっきりしているか、と試してみてはじめて実感しました。ソローは「自分にあった物だけが真に役立つ」とも言っています。
 私だってよりよい民主主義に貢献できるのかもしれません。だけど新聞をにらみつけるというのは私にふさわしい方法ではなかったのでしょう。私にとってもっと身近でいきいきとした方法が、きっとあるのだし、厭なことをするよりも、よりふさわしい方法を考える方が的を射ています。もっと陽気で謎に満ちた方法で生活に関わっていく権利は、自分から放棄さえしなければ、きっと誰にでもあるのです。


更新日:2006-06-28


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