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ソロー著「メインの森」
クターデン山での畏怖


 「メインの森」で大変面白かったことのひとつはソローが山を畏れるという所でした。ウォールデンでのソローは夜の動物たちの鳴き声も、夜の完全な暗闇も、獣も、孤独も、何も恐れていないのです。
 私は自然の中では理解し合えない大型の獣と、自由の利かない闇と、誰にも助けてもらえない孤独がいつも怖いので、あまりにも何も恐れないソローのことをむしろ感性を疑ってしまうところがあったのです。
 ところがクターデンという人跡のまったくない辺境の山の頂きに到達したソローは言います。

【「ここでは人間ははてしなく孤独だ。本来の住み家である平野にいるときに比べ、思考は具体性を欠き、理解力は衰える、理性は拡散して、不明瞭となり、空気のように希薄になる。】

この思考と理解力と理性とが使い物にならなくなる感じって、私が自然の中で知らぬ動物と闇と孤独を怖がっている時の感じなのかなあと思ったのですが。なんだか分からないけどただ怖い。
 思い出したのが「快読シェイクスピア」という本で、河合隼雄さんと松岡和子さんの対談でこんな一節があってとても感心したことがあります。

【松岡:イギリスの森は地面が平らだということなんです。これはすごく大事なことだと思ったんです。
河合:そうなんです。日本人はそれを知らないんです。日本人は森といったら山を思うんです。】


 地面が傾いているのか真っ平らなのか、ということが感性の点に置いてとっても大事、という指摘が読んだ時にとっても面白くて感心したんです。イギリスとアメリカだし、シェークスピアとソローだし、ここに持ってくるのは全然違うだろ、というのは勿論そうなんですが、ソローが親しんだ自然って、どこまでも平らな地面だったのじゃないなあ、って、ふと思いついたんですね。それで高い山の頂きに立った時に、ふわーっと理性が溶けていくような気がしたのかな、と。
 私が生まれ育って骨肉のレベルで理解している世界の風景というのは、見渡す限り建築方法も不明な程手の込んだ人造物がどこまでも続いていて、勿論足下の地面も全部人工で、夜も昼と同じくらい明るい、動物は雀とカラスとハトしかいない、どこまで行っても人がいる、という場所で。だからそれらからちょっとでも切り離されたところにいくとふわーっと理性が溶けていく感じが有るわけです。ソローほど屈強でサバイバルのスキルがあって、自然に対する知識が豊富にある、キャパシティの広い人でも、自分の知っている世界のイメージから切り離されて、それこそ平衡感覚の狂う山の上にポンと置かれてしまったら、「やっぱり怖いんだっ」と思って、これはとても嬉しかった文章でした。


更新日:2006-06-13


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