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こんなふうに読んできた
北緯43度のソロー


ソローが非常に誤解されて解釈されてきたことの理由のひとつとして、訳者の今泉氏が、読み手の経験がソローに遠く及ばないことをあげています。
例として、動物を狩るという猟師の経験、美しい夜の散歩、朝早く起きて夜明けを見るという経験を長く重ねることなど、このような経験をした人が実際どの程度いるでしょうか、ということです。
これはもう、本当にそうだなあ、と思います。
この私でも、草木や鳥など目の前にあるものの名前を覚えようという意識を持って世界を眺め始めた前と後とではソローの読み方が全然違うというのを感じています。
逆に私が今まで殆ど触れた経験のない池について長々と解説されて、その上で「人間も池と同じです」などと言われると、「えーっ、なんでいきなり。」とその哲学が一足飛びなのにびっくりしたりします。

都会で育っている私にはソロー流の野外で行う様々な歓びをもたらす経験というのは圧倒的に少ないのですが、
ひとつ、今泉氏はあげていないけれど、私がソローを読むに人よりも断然有利だろうと思う経験があります。
それがコンコードと同じ北緯43度で生まれて、暮らしてきた、ということです。
ソローが春にどうしてあれほど強い歓びを感じるのか、これはもうひしひしと分かります。
私は桜よりも雪にもののあはれを感じる日本人で、雪が降り始めても、そこに黙って積もっていても、溶け始めても、完全に姿を消した瞬間にも、とにかく居てもたっても居られないような気がずっとしている。
雪がある、というのは孤独と長い内省の日々を現すことだし、雪が消えてゆくというのは即ち歓びであり許されること、なんですね。
春の若葉は再生というキーワードで冬を思い起こさせるし、今は盛りの夏も冬がケであることに対してこれがハレだ、という意識がずっとある。
そして秋はもちろん冬の導入部として意識されている。
そういった訳で結局一年中ずっと意識の中には冬がある訳です。

ソローの時代にはさすがになかったでしょうが、今は冬季鬱病という言葉あります。
日照時間が短いことが原因で起こるという無気力、過眠、過食の症状だそうです。
考えて見るとまさに私だな、と思ったりします。
程度は色々ありますが冬はやっぱり精神的に辛い、という意識が根本にある。
(実は興味深いことにソローも森での冬に過眠に苦しんでいます。(第十四章))
鬱病かどうかというよな話はちょっと脇に置くとして、冬であることというのは私にとっては即ちそのまま精神状態なんですね。
明らかにサイクルとして”冬という心の状態”がある。
自然界に冬が来ることが仕方ない以上、自分の心に冬が来ることも仕方ない訳です。
諦念みたいなものもあるし、四季は自分のゴッドマザーであるという強い意識もある。
 では冬が嫌いなのかというと決してそんなことはなくて、冬の静けさと春に豊富に与えられる許しというのが大変好きで、雪のない土地で暮らすのは嫌だなあとまでも思っていたりする。冬の精神的な辛さまで含めてしみじみ自分の血であり、骨で有るわけです。

自然とぴったりくっついて内外の垣根なく生きていく感覚。
雪がつもったと言えば家の外ではなくソローの中に降ったのではないかと思わせる感じや、
池の氷を割ると中に天国が見えた、と書いていればその天国はソローの中にあるのだろうなあ、と思わせる感じ、
夜明けと書いてあればソローの心が明けたのだろうなあ、と思わせる感じ。
そういったもの凄く密な一体感、って他ならぬ冬の厳しさが作ったのではないか、なんて実は私は思っているのですね。
「長く厳しい冬を乗り越えた後の春の許しを起点として一年を暮らす人の気持ちを、北緯43度に立って読まずして一体だれに分かるのか」というような、非常に親しい感覚を持って読んでいるのであります。


更新日:2006-06-13


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